EPISODE 3 佐藤さんの生い立ち-20代慕情編-
■ 8 ■ 岩の方へ、岩の方へ
佐藤:僻地(へきち)で先生をやるために北海道教育大学に入ったんですよ。
たまたま自分が入った研究室が僻地教育の分野では有名な人で。
だから最初は、僻地教育をやるつもりでいたんです。北海道教育大学に行って、
僻地教育専門の先生の研究室に入れば、もう僻地に行くしかないでしょ?
もうそれしか道はないじゃないですか。だから、いろんなものとか何もない僻地で暮らしてもいいなと。
そういうふうになったら、なかなか戻ってくることもできないだろうし。
自分で無理に目的を持ったり、こうじゃなきゃいけないっていう気持ちを持ちようがなくなるでしょ。
だいたい世代的に言ってもムリがある気がしたんですよ。「目標を持つ」っていうこと自体に。
だから、“とにかくそうせざるを得ない”っていうふうにするのが一番なんじゃないかと。
編:絞り込むしかないと?
佐藤:そう、絞り込むしかないなと。で、教育大学だから、みんな3〜4年になると
教員採用試験の勉強とか始めて、受けるでしょ、試験を。僕も一次試験だけは受けたのかな?
だけど、その〜、そこでみんなが勉強してることっていうのは、本当につまらないことですからね。
こんなことやって一体何になるのっていうくらい。自分はその時だけ我慢するとしても、
それを子どもに教えるとなると、これはちょっとツライなあと。
教員採用試験っていうのは「あなたは教科書を鵜呑みにできる人間ですか?」
って聞かれてるようなものだから、それはちょっと、とてもじゃないけどできないんじゃないかと。
そういうことと、尊敬してた研究室の先生が途中で死んじゃったことなんかもあって、
今度はね、岩ばっかり登ってたんですよ。岩登り。
で、あの〜……ていうか、なんか話がムチャクチャになってきてませんか?
いいんですか、こんな話してて。おもしろいんですかね? こんなことが。
編:(問いかけを無視して)それはサークルとかではなくて?
佐藤:サークルなんですけど。サークルっていうより、すごい少数の仲間で。
やっぱり、どこか外れてるヤツばっかりで。山にも登るんだけども、
特化していくヤツはどうしても険しい岩の方に向かっていくんですよ。
編:岩に? 岩の方へ岩の方へ(笑)
佐藤:そうそう(笑)。冬山登山とかアイスクライミングとかもやりましたけどね。
流氷の上で寝泊まりしててそのまま流されて自衛隊に救出されたヤツなんかもいましたし。
そいつなんかは、かなりの天然で。でも、僕の場合は、どれもこれも全部他人からの影響なんですよ。
研究室に入ったのもそうだったし、目の前にすごい人間がいるから(自分も)やってみるんだけど、
全然かなわなくて、また、何か違うことを始める。その連続。岩登りの時もそうだった。
編:ああ、岩登りの達人が……
佐藤:いるんですよ。でも、まあ、そこまでは到達できなくても、楽しいし、登ってたんですよ。
で、卒業ギリギリまで登ってて、今度は信州大学におもしろい先生がいるからってことで、
書いた論文とかを送って審査してもらって、教育社会学の研究室に入れてもらったんです。
そこの研究室にいる他の人間っていうのは、みんな大学院に行って研究職につくような
そういう人間なわけだから、当然、そこに入った時点でそういう指導をされるわけですよね。
でも、僕はもともと勉強が苦手なんで、語学とかきっちりやらなきゃならないのはツライじゃないですか。
そうなると、どう考えてもそこにいるべきじゃないし、僕自身は興味のあることがとっちらかってるから、
もう、どうやって逃げ出そうか考えてるんですよ(笑)、せっかくムリを言って入れてもらったのに。
時代っていうのもあったのかもしれないですけどね。ニューアカ※が流行ってたとか
そんな背景もあったから。自分みたいに外れた人間がそういうことをやるのもおもしろいんじゃないかって
そういうイイカゲンなことを考えていただけなんだろうと思うんですよ、今となっては。
でも、これはどう考えてもムリがあるなと思って。それで、土方を始めたんです。
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※ニューアカ(new academism)
大学に根を持ちながらも、旧来のアカデミズムからはみ出して
それに反逆を企てる新しいタイプのアカデミズム。(外来語年鑑2000年より)
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編:え、いきなりですか?
佐藤:ええ、いきなり。職安に行って。
「キミみたいなインテリアがやる仕事じゃないよ」って窓口で言われましたけど。
「あの〜、僕、インテリアじゃないんですけど。それを言うならインテリでしょう」って(笑)。
編:(笑)完璧ですね。それになんか、すごいギャップありますね。
何故にまた土方なんですか?
佐藤:ん〜っと、勉強もやってみたけど全然かなわなかったわけでしょ。
って言うほどやってないんですけど、やっぱりそこにも達人がいて、つまり達人っていうのは
努力で追いついたりできる人間じゃないんですよ。センスの問題なんです。
頭のいい人間って、要するに、すごいセンスがいいんです。
で、そういう「ダメだこりゃ!かなわん」っていう人間に、またしても出会っちゃったから。
そこでもう、さすがにやることが尽きちゃったんで。
その時点ですぐに働いてお金になるものっていうのを考えたら土方しか思いつかなくて。
編:土方はどのくらいやっていたんですか?
佐藤:ほんの半年くらいです。何の目的もなくただ土方をやってるのも、
それはそれでけっこうキツイじゃないですか(笑)。
しかもねえ、ものすごい土方に向いてるヤツがいたんですよ、そこにもまた。
「やっぱりなめてたなぁ」って、その時は本当にそう思いましたけど(笑)。
すごく真面目に選んだつもりなんですよ、自分としては。
すぐにちゃんとお金が欲しい、だから体を動かして働くんだと。
それで日銭をもらって食っていくっていうことが、なんのズレも生じない、まっとうさなんだと。
でも、やっぱり向いてないんですよ。向いてる人っていうのはね、服が汚れないんです。
ズルズルズルズルとモノを運んでたりするのは、体の使い方が悪いからなんです。
で、汚れる、疲れる。でも、向いてる人っていうのは、汚れもしないし、あんまり疲れないんですよ。
疲れないように体を運んでいるから。それが無意識に出来ているし、っていうことは悩まないんですよ。
悩まないから体がすごく効率的に動く。自分なんかは、そういう意味では
家に帰ってもいろいろとまだ引きずってるから、本読んじゃったりとかしてね。その時点でダメなんですよ。
帰って、本読んでるっていう時点で向いてないってことなんです。
そんなことしてるくらいなら、酒飲んで寝た方がいいっていうのがいちばんよくデキた土方ですよ。
そこを何か、いろんなことで悩んだりとか、社会的なことに興味を持ったりとか、
しかもその興味の持ち方っていうのが変に理屈っぽく考えたりしてる時点で土方として劣ってるわけ。
向いてる人っていうのは、もう全部そこにいくように体が本能的に動いてるから、
どんどん差がついてっちゃうんですよ。同じ日から始めたとしても、日に日に差が開いてっちゃう。
そうなると、もうなんのためにやってんのかわかんなくなってくる。
■ 9 ■ 東京おはぎ
佐藤:でも日銭は稼がなきゃいけないから、真剣に悩んじゃってねえ。
どうしても気になることっていうのは、やっぱり自分が今までに通過してきたものの中に
あるわけじゃないですか。で、当時、第三舞台※が出てきたりとか、
ニューウェーブ※の音楽が出てきたりとか、そういうことが東京ですごい起こってるっていうことが
情報としては入ってきてたんだけど、身の回りでは全然起こってないから、
今度はそういう部分であせり出すんですね。で、そこではじめて、
自分を一種の病人として意識したんですよねえ。
「ああ、なんか自分と同じような病人がたくさんいそうだなぁ、東京には」って。
要するに、人の役になんか全然たたないのに、自己主張ばっかり激しくて、他に行き場もない、
そういうヤツらがたくさんの小競り合いを繰り返してるんだろうなぁって。
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※第三舞台:早稲田大学劇研出身の鴻上尚史(こうかみ・しょうじ)を代表とする劇団。
80年代小劇場ブームで一躍有名となった。
【THIRDSTAGE.COM】
http://www.thirdstage.com/
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※ニューウェーブ:70年代から80年代初頭にかけて流行った電子音楽。
パンクのポップさと巧妙でエレクトリックな楽曲は当時の若者の心を掴んだ。
日本ではY.M.Oやヒカシュー、P-MODELなど。
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編:病人扱いですか(笑)
佐藤:病人みたいなもんですよ。だからもう、それを認めようじゃないかと。自分は病人なんだと。
土方になってみて、しっかりとお天道様の下で働き始めてもねえ、
まだウダウダウダウダいろんなこと考えてるんだから、今さら健康的でまっとうな人間に
なれるつもりでいること自体が間違っているわけで。ろくでもないこと考えて、ろくでもないこと試して、
そういうことを引きずってこだわってここまできたこと自体が、もう十分病気なんだから。
僻地に行って先生やったり、土方やったり、そういうことで更正しようと思っても無理なんだと(笑)。
だから、また東京に行って、本当にもう極端にダメなことをやるしかないんだなって。
でもやっぱりまだ「お金を稼ぐのは体を使って」とか思ってるんですよ。
事務仕事だと責任を負っちゃうでしょ。やりきりで等価交換でお金もらって、
こんだけ体動かしてこんだけ荷物運んだからっていうのじゃなくなるじゃないですか。
この経理仕事やってとか、こういう責任をもってとかってなると辞められなくなると思ったんで、
そういう意味でも日雇いがよかったんですよ。肉体労働と日雇いのセットだとね、
来週は、芝居観に行きます、映画観に行きます、部屋に籠もって絵を描きます、
なんとかの用事で休みますって言っても、別に迷惑かけないじゃないですか。
ちゃんと代役に入ってもらえばいいわけだから。だからやっぱり、
また東京に戻ってきた時も、そういう仕事を探したんだけど、なかなかいいところが見つからなくて。
それで、最初に見つけたのが、浅草でおはぎをつくる仕事だったんですよね(笑)。
編:おはぎ、ですか(笑)。それはまた、いきなりですね。クリエイターですか?
佐藤:ちゃんとつくる機械があるから、一種の工場労働なんですけどね。
その頃に、ちょっと思い出したんですよね。やっぱり手先が器用だったはずだなあって。
こんなに効率の悪い、向いてないことばっかりやって、いちばんビリッケツ走ってる状態っていうのが
一生続くのはちょっとイヤだなあと。そしたらなんか、ちょっとくらい得意な部分を利用しても
バチは当たらないじゃないかって。それまでたいがいのことは敗北したと思ってるっていうか、
選択肢としてはもうないもんだと思ってたから、考えないようにしてたんだけど、
なんか、手先の器用さみたいなものを利用できないものかなあって。
だからその〜、たとえば、『巨人の星』の星一徹だってね、別に土方なんかやんなくたって
近所の子どもを集めて野球教室でも開けば、もっと楽に喰っていけたはずじゃないですか。
肩を壊して引退したとは言え、歴とした元巨人の名選手なんだから(笑)。
でも、そんな選択はありえなかったでしょ? 星一徹にとって。
だから、意外と石ノ森章太郎じゃなくって、梶原一騎※の影響下にあったのかも
しれないんですよ、僕の10代〜20代中盤までの人生って。
自分で語ってても、ちょっと引いちゃうところがあるんですけど。
だって、とても80年代に青春時代を過ごした人間の経歴じゃないですよ、こんなもの(笑)。
編:梶原一騎の影響でしたか!まさか佐藤さんが(笑)。
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※梶原一騎(かじわら・いっき):1936-1987年(1935年説も有り)
『巨人の星』『あしたのジョー』『タイガーマスク』『空手バカ一代』など、
劇画の原作者として数多くの漫画を世に排出してきた。
しかし、原作者としてデビューしたてのころも、編集者側からの修正要求などを一切拒否したり、
晩年には若手作家への恐喝、編集者への暴行などで有罪判決を受けていた。
本人がまさしく劇画のヒーローとでもいうべき人生。
そんな梶原一騎の最後の作品『男の星座』で自らの人生をひもといている。
【手塚系と梶原系 二大ヒーローの系譜】
http://ya.sakura.ne.jp/~otsukimi/hondat/view/teka.htm
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■ 10 ■ えっ、漫画家の道へ!?
佐藤:でもこのあたりからやっと、やっと梶原一騎の呪縛が解けてきてですね、
ちょっとくらい楽したっていいんだと。利用できるものがあるならそれを使ってみようやと。
その時ちょうど、内田春菊※さんと一丸※さんのところでアシスタントの募集広告が出てたんですよ。
で、内田春菊さんのところに応募したら、ちゃんと本人直筆の返事がかえってきて、
まずそのことにも感動したんですけど、“あなたは多分、何をやっても生きていけそうな人だから、
今回は他の人を採用します。うちで採用しないとホントに死んでしまいそうな、
そういうどうしようもないヤツばっかり応募してくるから、ウチでしか生きていけない、
ここでしかっていう人を選びます”っていう、そういうような内容のことが書いてあって。
その内容にちょっとジーンときちゃったんですよね。「ああ、そっかあ、そういうことなんだなあ」って。
何がそういうことなのか!その時何にジーンときてたのか今となってはよくわからないんですけど。
編:(笑)。それは何を送ったんですか?
佐藤:よく憶えてないんですけど、経歴みたいなものを書いて送ったんじゃないかなあ。
編:まぁ、それまでに相当色々やってきてるから、そう思われちゃったんでしょうねぇ。
佐藤:やり過ぎちゃったんですかねえ、いろいろと(笑)。
それで、一丸さんの方からは、じゃきてごらんって言われて、集まってきた人間の中では
いちばん上手かったし、実際にもう、初日から背景とか描いてましたから。
でもやっぱり「本当に漫画じゃないと生きていけないとは思ってないでしょ?」
って一丸さんにも同じようなことを言われて。「だったらやっぱり何か他のことやった方がいいよ」
って言われて、確かになぁって。何かに追いつめられればやるけれど、
「これ以外に道はない」とは思ってなかったし、他に何かあるっていうふうに思ってたんですよね。
だから、それはほんの数週間くらいの期間ですよ。そこで詰めて描いてたっていうのは。
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※内田春菊(うちだ・しゅんぎく):1959年生まれ
高校生で家出、上京。1984年4コマ漫画『シーラカンス・ぶれいん』でデビュー。
主な代表作として著書『ファザーファッカー』や、漫画『南くんの恋人』『呪いのワンピース』など。
東京電力のマスコットキャラクターでん子ちゃんの生みの親でもある。
3児の母であり、それぞれ子供の父親が違うというツワモノ。
【内田春菊】
http://www.shodensha.co.jp/fc/shungiku01.htm
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※一丸(いちまる)
代表作:『おかみさん 新米内儀相撲部屋奮闘記』『1年1組甲斐せんせい』など。
【おかみさん】
http://www.bigcomics.shogakukan.co.jp/toshokan/title/ag/okamisan.html
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編:じゃ、アシスタント時代は数週間で終わったんですね。
■ 11 ■ 美学校からデザイナーへ
編:その時点で、当時おいくつだったんですか?
佐藤:大学出て23でしょ、信州大学出て24でしょ、で、東京出てきたのが25でしょ、
だから25から26の間くらいですね。んで、とにかく、ま、ちょっと遅いけど、
開き直って動き回れるかぎりはなんでもやってやろうと思って、黒テント※とか
そういう劇団に出入りしてみたり、美学校に行ったり、そういうことを20代の中盤に集中的に始めるんですよ。
ほんで、芝居つくるんだったら舞台もつくれなきゃいけないしって。欲張りなんでしょうねえ。
芝居は舞台つくる人も役者も作家もいて、でも、そこに関わるためにはいつ何時どれをやれと言われても
何でもできなきゃいけないとかって思っちゃうんですよね。
だから、やっぱりまだ本当の意味では追いつめられてないんですよ。
本当に追いつめられたのは30過ぎてからですね。もう本当に後がないってなったのは。
『WIRED 日本版』※なんかは、最後に追いつめられたパワーみたいなものでつくれたんだと思いますけどね。
で、一丸さんのところで正式採用が見送られて、その後に見つけたのが、
俗にタタキって言われている仕事で、ほら、よくデパートの展示場でなんとか展とかって
やってるじゃないですか。その時にハリボテなんかがつくってありますけど、
ああいうものを閉店後の夜中のうちにつくって、ほんで開店前の朝に帰ってくるような仕事なんですよ。
それはわりと長かったかなぁ。その後、編集の仕事なんかもしてみたり、
そういうことをやって食いぶちを繋ぎながら、芝居の手伝いをしたり、絵を描いたりしてました。
で、美学校に行ってた時に、翔泳社のバイト募集の貼り紙が出てたんです。
でもね、その貼り紙に書いてあった内容っていうのが、じつは、元の募集内容と全然違ってて。
“美学校を続けながら誰でも簡単に続けられるお仕事です”
みたいなことが書いてあったんだけど、そんな募集じゃなかったんですよ(笑)。
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※黒テント:1968年に「自由劇場」「六月劇場」「発見の会」の三劇団の連合組織である
「演劇センター68」として発足。
70年には大型の移動式テント劇場を創設し、全国移動公演の旅を開始。
71年に組織を一つにして名称を「黒色テント68/71」と改める。
以後20数年間にわたるテント劇場による上演地は、北は北海道から南は沖縄まで150都市以上に達している
【黒テントホームページ】
http://ipnet.city.nerima.tokyo.jp/kurotent/
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※『WIRED 日本版』:日本のインターネット関連誌では最も古い雑誌のひとつ。94年に創刊し98年に休刊。
Webマガジン『Hot Wired Japan』として現在は続いている。
【HOT Wired Japan 佐藤直樹インタビュー】
http://www.hotwired.co.jp/culture/interview/011226/
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編:美学校に対して翔泳社が出した広告なんですか?
佐藤:そうなんです。それがそもそもどうかしてるよって(笑)……今ならそう思いますけど。
編:バイト……ではなく?
佐藤:いや、アルバイトってちゃんと書いてあったと思いますよ。書いてなかったとしたって、
“美学校を続けながら誰でも簡単に続けられる”正社員募集なんて、そんな話があるわけないでしょ!
でも、行ってみたら全然そういう募集じゃなかった。きっと翔泳社と美学校の間に
たまたま知り合いの知り合いみたいな関係があって、なんか伝言ゲームみたいなことが起こって
おかしな募集になっちゃったんじゃないかと思うんですけど。
当時、急成長のマイクロソフトをマニュアルづくりなんかで支えていたのが翔泳社なんですよ!
なんていうイイカゲンな人たちなんだっていう(笑)。
それで面接に行ったんですけど、向こうは変なヤツが応募してきたなぁって思っているし、
こっちはなんだか自分が見てきたのとは違う世界だなぁって。
結局まずはバイトで採用されて、これからはデザイナーを内部で抱えてやっていきたいからって、
できるでしょ? ちょっとやってみてって感じで……。そっからデザイナーになりました。
で、その時点で27くらい。だから、デザイン始めたのは27くらいってことですね。
編:Macとかって……、その時に初めて?
佐藤:Macはその後に入ってくるんですよ。80年代後半のことですね。
もともとコンピュータのマニュアルをつくってる会社だったから、導入は早かったんですけど、
でもまだMacがどれくらい普及するか見えなかったし、メインのクライアントがマイクロソフトだったから、
最初は98で一太郎とか花子とか使ったりしてました。でもそれじゃ全然仕事になんないんで
デザインのほうは写植と版下の世界だったです。それから……って、おもしろくないですよ、この辺の話は。
編:いや、でもなかなか聞けない話ですからね(笑)。本とかもないし。
佐藤:本……ありますよ(『デジタルクリエイターになる!』を渡される)。
どうぞ、あげます。たぶん、それでだいたいの話はつかめます。ちゅうことで。おしまい!
編:はい!ありがとうございました!
以下、その後の略歴を佐藤さんから手渡された
『デジタルクリエイターになる!』土枝小百合 編(発行:メタローグ)を参照して掲載します。
1988年:株式会社翔泳社入社
1994年:『WIRED 日本版』創刊にあたりADとして参加
1996年:グラフィック・ユニット『ソイグラフィカ』結成
1998年:『ソイグラフィカ』解散後、株式会社アジール・デザイン設立
現在に至る。
END